ルクを語るためのいくつかの断片
Milch(2005)



 イゴール・コヴァリョフの『ミルク』に耳を傾けてみる。音がほぼ鳴り止むことがないことに気付かされたとき、耳はもはや聴く行為から逃れることができず、金縛りにあってしまう。聴くことは、強迫観念によって強制される行為になってしまう。

 溢れる音は世界の豊かさを教えてくれることがある。でも、ここでは違う。世界に溢れる音は、それをすべて回収して処理することなど決して不可能なほどに過剰なのだということを無理矢理に納得させられてしまう。混乱を恐れて耳を閉じてしまえば、この世界はあまりに遠くなり、混乱する映像の断片たちに一貫する根拠を見出すことができなくなる。だからといって、耳を傾ければ、その瞬間、世界はあまりに近くなりすぎる。音は必ずしも心地よいとはいえないかたちで距離を縮めてきて、耳をふさぐことを許してくれない。カメラが揺らぐのは、これらの音を聴きつづけるうちに平衡感覚を失ってしまったからのようにも思えてくる。少々ふらふらとした状態が、この世界を体験するのに正しい態度なのかもしれない。

 映像の部分の突拍子のなさは何の問題にもならない。例えば糸巻きは意味ありげに配置されているが、そこに象徴性などないだろう。この作品に登場する具体物は、ある感覚をかたちづくるためだけにあり、その感覚の一貫性を壊しさえしなければなんでもいい。さまざまな国の言葉が混じり込み、果てには何語でもない音が発せられるが、言葉は何語であってもいいし、何語でもなくていい。少年は大人の声を出してもいいし、出さなくてもいい。感覚の世界を一貫させるためのものであればそれでいい。エンディングの歌はあまりに「それっぽい」し、時間軸の構成は現実にはありえないが、それがどうしたというのだ。これらの選択がマイナスに働くことはなく、むしろここからは、ある感覚をかたちづくるための根拠しか感じとることができない。

 批評する文章を書くものの役目として、その感覚になにか言葉を与えないといけないのだろうか? そうは思わない。なぜならば、『ミルク』は作品自体で充分に語っており、そこからあなたが得た感覚はあなただけのものだからだ。もし名付けたければ、ふさわしいものを自分の語彙のなかで見つければいい。僕はすでにそれを見つけたが、わざわざここに書き記す必要はないだろう。(土居伸彰


作品DATA
Milch (2005)
監督:イゴール・コヴァリョフIgor Kovalyov
>Desire & Sexuality: Animating the Unconscious[British Animation Awards]("Milch"収録のオムニバスDVD)
>DVD Milch[AWN Store]("Milch"のシングルDVD)
>公式サイト("Milch"の作品スチール多数あり)

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『ミルク』を語るためのいくつかの断片