ロット
Marottes(2006)



 皆がカメラ目線で撮った記念写真がどうしてもその時の記憶の細部と結びつかないのは、カメラを意識することが、記録を残そうとするその出来事から、被写体を連れ出してしまうからにちがいない。そういった写真に写る笑顔がわざとらしいのは、写真を撮られること自体は特におかしくも楽しくもないのに、むりやり顔を笑わせるからだということは経験から知っている。彼らはすでに、その写真を眺める未来の自分を見つめていて、楽しみに溢れた現在から連れ去られつつある。
 写真を眺め過去の出来事に思いを馳せる人がその出来事をもっとも鮮明に思い出すのは、カメラを決して意識しない被写体の姿を目撃するときだ。彼らは自分の出来事の中に没入していて、カメラの向こう側にいるこちらのことなどおかまいなしに、その現在を楽しんでいる。その爛漫な姿は、写真を眺める人たちに楽しい思いを反復させるだろう。だが同時に、少しだけ寂しい気持ちにもなる。なぜなら、こちらを見つめない彼らは、もはや自分たちとは関係なく(被写体が自分であっても同じことだ)、自分たちはそこからはじきだされてしまっているからだ。
 
 ヴァランタンは自分では気づかぬままにセリーヌに恋心を抱いていて、でもセリーヌはマロットと呼ばれる人形を相手にして離れの小屋で一人遊ぶだけ。ヴァランタンは人形ばかりをみてこちらをみてくれないセリーヌにいらついてしまって、自分で何をしているのかわからないままに、いたずらをしかけつづける。一方でセリーヌはヴァランタンの行為の意味がわからない。どうして自分にちょっかいを出すのか、どうしていじわるばかりするのか。
 二人の気持ち、いらだちと不安はわけもわからず高まっていき、知らず知らずのうちにヴァランタンはセリーヌのマロットを壊し、離れ小屋からもマロットを持ち出して燃やす。マロットこそが自分の敵だから。その火が小屋自体に移ってしまうなどということは考えない。ただ、人形を燃やすことだけを考えているから。何の根拠もなく、その行為に意味があると思っているかのように。

 冷蔵庫の中に隠れ、なんとか無事でいることのできたセリーヌは、父親に抱えられる。しかしそこにヴァランタンがやってきて、父親からセリーヌを奪い取る。父親は少しの抵抗をみせただけで、わけもわからずヴァランタンに娘を渡してしまう。ヴァランタンの目には涙が浮かぶ。こんなことをするはずじゃなかった、とでも考えているのだろうか。セリーヌはそんなヴァランタンの涙を拭う。ついさっき、自分ごと小屋を燃やしてしまおうとした、その相手を。いつも自分を怖がらせる、その相手を。
 そこにシャッターの音が鳴る。その場にいた誰もが、音のした方を振り向く。映画はそこで終わる。(そして別の何かも終わる。それは何か。)セリーヌの弟はカメラが趣味で、なんでもかんでも撮っている。その弟が、火事のあとの混乱の光景を撮影したのだ。シャッターの音は人々を出来事から連れ去っていく。わけのわからぬままに一連の出来事を過ごしていた皆は、その音に驚いて振り向き、驚かされるのは登場人物だけでなく観客もそうで、訪れる静寂の中に波の音を耳にする。いままでその存在に気がつきさえしなかったのに。シャッターの音は、それを耳にする誰もを、出来事の外へ連れ去っていく。自分がかつていた状況に対して線を引き、その意味を考えさせる。連れ去られたセリーヌとヴァランタンは、出来事の外に出てこう考えるだろう。「どうして僕は涙を流してしまったのだろう?」「どうして私はヴァランタンの涙を拭いてあげたのだろう?」没入しきって自分たちの行動の意味を考えることがなかった彼らは、出来事から連れ去られて、その意味を考えはじめる。過去を振り返って、いろいろなことをわかろうとする。

 彼らがその理由を見出すのは、撮られた写真をみたときだろう。スタッフロールをバックにして、セリーヌの弟が撮影した写真が飾られている。そのなかの一枚に、ヴァランタンの涙を拭うセリーヌの姿が写されている。シャッターの音が空気を切り裂き、皆を出来事から連れ出してしまう前の、没入している姿。この写真をいつか見るとき、もうすでにその出来事から遠く離れたところにいる二人は、そのときの自分たちの行為の意味を、そして、お互いの行為の意味を、知ることになるだろう。人を想うこと、人から想われることがどういうことなのか、それとなく気づくこととなるだろう。あのときはなんでそんなことがわからなかったのだろう、と微笑んで思い出すことができるようになるだろう。それは成長したことの証しである。もはやセリーヌにはマロットは必要でなく、閉じこもるべき小屋も必要なく、彼女の前には新たな世界が拓けた。ヴァランタンが連れ出してくれた、新しい世界が。シャッターの音がその到来を告げたのだ。何もわからないヴァランタンの行動は、そうとは意図されないままに、常にセリーヌを連れ出そうとするものだった。セリーヌただ一人だけが暮らしている、セリーヌだけの世界から。その外からやってくるヴァランタンのような人にただおびえるだけの、その世界の住人であることから。だからこそヴァランタンはセリーヌを迎えにいく。父親からも奪い取る。そしてそれは誰にも何の疑問も抱かれない。誰もがそのようにして成長していくからだ。

 だが、この作品に感じられるのは成長の喜びではない。胸の強い疼きだ。この世界を満たしていたのは、先ほど亡くなったエドワード・ヤン『枯嶺街少年殺人事件』(1991)を思わせるような、濃密な空気だ。日常を描いていながら、この次の瞬間には何か致命的なことが起こるのではないかという緊迫感を孕んでいる。シャッターの音とそれに続いて聞こえる静寂の音は、何かが終わったことにはっきりと気付かせる。濃密な時間はいつしか終わりを告げる。アニメーションがこのような形で成長の痛ましさを描いたことがあっただろうか。登場人物たちはアニメーションの世界の存在でありながら、時間を戻すことのできない物理的な身体を抱えている。この作品はそういう意味で実写映画的なものである。
 セリーヌとヴァランタンは、クレジットの背後にぼんやりと浮かび上がる写真を後に見つめることになるだろう。そして、呆然としてしまうだろう。自分はもうそこにはいないことに気づかされて。そのときカメラを構えていた弟同様に、もう、自分たちも、蚊帳の外に置かれてしまった。写真に記録されているこちらを見ない二人の姿、涙を流し、その涙を拭う二人の姿は、その出来事に没入している最後の姿だ。なにもわからないまま、ただその瞬間を生きている最後の姿だ。
 写真は僕たちを二つの方向へと引き裂いていく時間の境界線になる。だから写真を見ると引き裂かれた胸が痛む。ヴァランタンとセリーヌの二人はいまや、最初から部外者であった僕たちと同じ写真を見ている。世界に対して濃密さを感じることのできた、あの最後の瞬間を捉えた写真を。写真をながめる人たちは、風が静かに鳴り、少し暑い夜のあの独特の雰囲気のあの場所に、もう戻ることはできない。この作品を繰り返し再生することでしか。(土居伸彰


作品DATA
Marottes (2006)
監督:ブノワ・ラジィBenoit Razy
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マロット