ン・ハーツフェルト(特別編)
< 1 2 3 >


ドン・ハーツフェルト――オタワ国際アニメーションフェスティバル(2009)での回顧上映にて

>> http://www.bitterfilms.com/articles-o.html より

――音入れと絵作りのどちらが先ですか?

絵の全部とほとんどの編集が最初。でも音や音楽はずっと頭のなかにあるんだ。音の編集とナレーション入れは一番最後。『なにもかも大丈夫』は音のことをずっと考えながら作業してたから面白かったな。ずっとナレーションがあるから、基本的にはサイレントなんだよ。キャラクターやイメージのコンテクストは音を通じて得ていった。だから映画に生命が吹き込まれてかたちをなすのを最初に目撃するのは、すべてが撮影され、縫い合わされたあと、というわけじゃない。最後のステップに応じてナレーションや編集を洗練させられる自由があるのは素晴らしいことだった。音と脚本書きが僕の得意分野なんだ。そうなると、映画を作るのが一番良いということになる。例外なく言えるのは、音の作業が一番楽しいってことだね。

――それは本当に面白い答えですね。有名なアニメーション作家が「音と脚本書きが得意分野」だと言うんだから。映画作家にとっては「その他」の分野だと思われているところが強みだと言って、ドローイングについてはそれほどだと言う。そのことについてもうちょっと話してもらえませんか?

うん、でも僕は美術学校には行ってないことを思い出してほしい。僕は脇道からアニメーションに落っこちてきたようなものだから。誰かのくるぶしを正しく描こうと何週間も悪戦苦闘するようなタイプではないんだ。実際、くるぶしなんか描いたことないしね。僕がアニメーションを作るのは物語を語るため。アニメーションについてもだんだんとうまくなっていってると思うけど、アニメートのプロセスのうちで、突然啓示が下ったりインスピレーションを得たりすることはない。撮影の作業や脚本執筆、音付けのときにはあるんだけど。アニメートは面白いし、いくつかの点では僕にも誇れることがあると思うんだけど、たいていの場合はA地点とB地点を結びつけるための一番しんどい仕事。アイデアやユーモア、撮影されたもののデザイン全体、サウンドトラック、パフォーマンス、まあアニメート以外のあらゆるもののおかげで、このしんどい仕事を乗り切れる。アニメーション自体は副次的なものなんだ。他のすべてのための基礎。観客がそこに関心を払わないでいてくれるのが理想なんだけどね。観客が最新の技術にやきもきしたり、ただアニメーションだからといってチケットを買ったりするのはイヤだな。新しさってのは僕をうんざりさせる。新しいホーム・ビデオ・カメラを買って、自宅の庭でダンスかなんかしてそれを撮影する程度のものでしかないんじゃないかな。「うん、よかったね。……それで?」っていう。わかるよね?

――『なにもかも大丈夫』に対する反応で、一番驚いたのは?

劇場で上映したときに、涙を流している人をみたときかな……そのときやっと、この映画は成功したと思えた。笑い声を耳にしたときじゃなくてね。ビルと同じ状況[病気によって死を意識すること]を個人的に深いレベルで体験した人と話すのは、僕にとってはいままでになかった体験だった。でも言っておきたいんだけど、他のアニメーション作家たちが、僕がアニメーションの奇跡を巻き起こしたっていうふうに僕に言ってくるときにはすごく奇妙な気分になる。マッチ棒型のキャラクターを使って泣ける作品を作ったことをすごく強調して驚くんだ。僕はこう思ってしまうよ……「なあ、よしてくれよ、それこそが僕らのやることだろ?」って。僕のマッチ棒型のキャラクターはあんたのフォトリアリスティック的なしんどい仕事の結果以上のものでも以下のものでもない。だったらそのしんどい仕事の負担を減らしてみたらどうなんだい、って。 (……)僕らはいまだに形式やツールに対して盲目なんだってことに驚くよ。(……)アニメーションについての記事は技術のことばかり。内容自体にもっと見るべきものがある場合でもそうだ。赤いボールが青の三角形と悲劇的な恋に落ちる長編アニメーションを作ったっていいんだ。そんな作業を家できちんとこつこつとやれば、涙を浮かべない人なんていないはずだね。


Welcome to the Show (2003) (c) bitter films

>> http://www.bitterfilms.com/articles-n.html より

<インディペンデント・アニメーションの状況、「ジ・アニメーション・ショウ」について>

※解説:数々の映画祭に参加し受賞を重ねてきたドン・ハーツフェルトだったが、短編アニメーションが然るべき上映場所と一般評価を得られていないことに憤慨し、「ビーバス・アンド・バッドヘッド」のマイク・ジャッジとともに「ジ・アニメーション・ショウ」を設立、映画祭で観て気に入った作品や公募によって選んだ作品、自らの新作を携えて全米の映画祭を巡回した。MTVとのコラボレーションを原因に上映作品に口を出されるようになり、笑いのみの追求に偏りがみられたため、Vol.4からはハーツフェルトは手を引いている。

――2007年のインディペンデント・アニメーションの世界についてどう思うか教えてください。

金持ちが味わう困惑ってのはこういう感じなんじゃないかと思うよ。アンダーグラウンドから現れる才能たちは年々印象的になってきている。僕たちは毎回の「ジ・アニメーション・ショウ」ごとに2000くらいの作品のエントリーを受け付けて、僕とマイクはそこから1ダースくらいのお気に入りを選ぶことになる。年に一回のプログラムには12本から14本だけしか選べない。そうなると、この国で短編の市場が絶望的なまでに壊れているからっていう理由だけで、これだけの驚くべき内容のものが観られないままでいるのか、ということに気付かされることになる。

――この大きくて邪悪なアニメーションの世界で生計を立てようと望む未来のアニメーション作家たちにはどういうアドバイスをしますか。

自分のやるべきことをやれ、かな。僕の知ってる「やり遂げた」人たちはみんな、他の誰よりも一生懸命作業してる。成功の秘訣があるとしたら、たぶんそれなんじゃないかな。たぶんたくさんの学生たちが、どうでもいい周辺的な産業的なゴミについて心配して、最初のページに辿り着くまでに混乱してしまっている。もし本当に誠実で新しい言うべき言葉があるのなら、作業にとりかかって、物乞いをして、借りて、盗んで、自分の映画を作るべきだね。「ジ・アニメーション・ショウ」への応募作品を観てすぐにわかるのは、誠実じゃない理由で作られている短編が多いってこと。単なる名刺として、長編を作るためのステップとして、エージェントの目を引くために作られた薄っぺらい作品が。観客に対して漠然とした印象を残そうとだけする作品が。そういう作品には恐怖を感じるよ。僕らはそういう作品は庭に埋めてしまうことにしてる。本当のアイデア、本当の視点を持っている作品ってのは、一番上まで浮かび上がってくるものなんだ。

――今年の「ジ・アニメーション・ショウ」について教えてください。ショーをやるにあたって、どのような挑戦をしましたか。

僕は自分のことをヘリコプターのパイロットのように感じるんだ。ヘリの燃料が無くなる前に、できるだけ多くの作品を洪水から救い出そうとしているパイロット。「ジ・アニメーション・ショウ」は儲けをバンバンだすようなものじゃないけど、大失敗もしてない。情熱溢れるプロジェクトってのは、そういうものだと思う。正直言って、もし札束を稼ぎだしたいんだったら、インディペンデントの短編アニメーションの世界にキャンプを張るなんてバカなんだ。僕らはそもそもの最初から、短編作品やそれを作る作家たちはインターネットっていう洞窟から救出されて、適切な劇場施設で観られるべきだと思ってた。そして誰もそれをやってなかった。三年が経ったけど、それはまだ同じだね。

ありがたいことに、僕自身の仕事は創作の方だから、資金や配給の恐ろしさに関わらずに済んでいる。でも言わせてほしいんだけど、インディペンデント・アニメーションをメインストリームのメディアに両腕を振り上げて突っ込んでいく険しい戦いを常に強いられてる。「突っ込む」というのはこの場合適切な言葉だと思う。最初の二年間はほとんどの新聞が、僕らのことをどう扱っていいかわからなかった。今年は一番面白いものになりそうだよ。プレショーの規模は大きくなっているし、すべての都市でMCが付く。一夜限りのコンサートなんてのもあるし、いくつかの会場では映画作家やスペシャルゲストのQ&Aもある。他の都市ではASIFAや地元のアニメーション・スクールを巻き込んで、彼らの作品を一緒に上映する。たくさんのことが起こって、映画祭のスピリット以上のものがある。ツアーでは災難もたくさんあるけど、観客たちがこの作家たちに支援の気持ちを見せつづけてくれる限り、このゾンビ的な魂を保つためにできる限りのことはしようと思ってる。

――二次元の短編作品を作るのに、どれだけの教育を受けましたか? サボりたいという気持ちの悪魔とどのようにして戦っていますか?

昼間に仕事をせずインディペンデントだけでやっていけている作家は一人しか知らない。ビル・プリンプトンだ。僕らは二人とも、信じられないくらいに幸運だということに気付いてる。ぐずぐずしたいという気持ちになることはほとんどないね。一日や二日、制作から遠ざかっていると、そわそわして頭がおかしくなりそうになる。もし僕が一日に三つの他の仕事をこなさなきゃいけないとしても、逆に億万長者だったとしても、制作をしないなんてことは難しいだろうね。想像もできないよ。僕には自分の伝えたい物語を伝えながら、誰の要求にも答えない自由がある。そして作品を待ってくれている多くの観客がいる。映画作家にとって、これ以上望むべきことがあるかな? だから何もしてない日があると、おかしな気分になってくるんだ。


『人生の意味』(2004) (c) bitter films

>> http://www.bitterfilms.com/articles-m.html より

<スタイルについて>
――あなたのアニメーションのスタイル(たとえば棒線画など)は偶然の産物ですか、それとも意識的な決断でしたか。

うーん、これがそもそもの僕のスタイルだったから、意識的かどうかはわからないな……でも映画の内容にはとても合っていると思うし、このスタイルにはすごく価値があると思う。違ったふうにデザインされた僕の作品ってのは想像できないな、少なくとも。あとから考えると、このスタイルは誠実だと思う。キャラクターがいて、こんな風に見えて……ってふうになっていくと、なんだか嘘をついているような気分になるし、「目のお菓子」で注意を反らしてしまっているような気がする。物語に戻ろうぜ、っていうことだ。大きな絵を見て、脂肪分を取り払って、核心に迫ろうっていうこと。背景を使うのさえ、好きじゃないね。
たまたまアニメートの作業をすることになった映画作家だと自分では思ってる。このコミュニティにいる他の人たちはそうじゃないみたいだし、それはそれで筋が通っていると思う。でも僕に関して言えば、美術学校ではなくて映画学校に通ってたんだ。僕は自分の作品に対して映画に接するようにして接している。物語、編集、音、キャラクター、カメラ、脚本。そういったものがまず最初にくるんだ。(……)多くの学生は最新のツールだとか最新の情勢に注意を反らされすぎてると思う。アニメーションは他の映画メディアよりもそういう牛のクソに脅かされがちなんだ。何もない荒野で、何もないステージで想像上の小道具や黒服の俳優を使ってシェークスピアを上演しても観客を泣かせることができるってことを思い出すべきだね。

<コマーシャルについて>
コマーシャルってものには耐えられない。でしゃばりで、侮辱的で、反社会的だ。こういう考えはたぶん個人的なものだとは思うよ。でも、僕らは危険な企業社会に生きていて、僕はそこに寄与したくない。僕は観客を信頼しすぎているから、そんなふうにしかできないんだ。

<アニメーションを制作する理由>
アニメーションでは実写よりもかなりの度合いでコントロールが効くからだと思う。すべてのフレームを構築することができるから、映画の最も純粋な形態なんだ。自分の頭のなかにあるものとマッチさせるたくさんのチャンスがあるし、あらゆる瞬間・ビートに対して微視的に作業ができる。ジャンプカットすることなしに、シーンの真ん中を分けることができる。実写映画だったらもっと妥協しないといけない。俳優がリズムをぶちこわしたり、キューを見逃したり、太陽が出てほしくないときに出てきたり、そういったことには対処の仕様がないんだ。純粋に技術的なことを言えば、アニメーション映画は完璧なショットが撮れる。

<シンプルな描画スタイルについて>
表象的な芸術にはふさわしい場所がある。でもそれは僕のものじゃない。心理学としての表現、ある人間が世界を見る主観的なやり方の表現に僕は興味がある。僕は芸術のうちにあるちょっとした瑕が好きだ。なぜなら、人生に存在する瑕を反映しているから。僕は子供の絵が好きだ。そこに自由や想像力が発揮されているからじゃなくて、線を描こうとするのに苦心していることがわかるから。葛藤や緊張感が感じられる。どんな物語を語っているかというのに辿り着く前に、たくさんの豊かさと個性を味わうことができる。
CGでのモデリングや完璧な静物画は冷たい気持ちにさせる。リアルで表象的な自転車の絵は、「自転車」としか言ってくれない。もし作品がそんな名詞以上のものでコミュニケートするなら、もっとたくさんのムードや心理がそこには加わるはずだ。アニメーションのフォトリアリズムが退屈で的外れなのはそのせいだよ。そういうのは名詞でしかないんだ。CGアニメーションの90パーセントは名詞でしかない。そのイメージの向こうに、何も感じることができない。
アニメーションっていうメディアの要点は、文字通りに何でもできるってことにある。今まで観たことがない驚くべきものを見せられるんだ。僕はアニメーション作家たちが映画の言語を変えてしまうのを見てみたいんだ! 真面目な話、僕らにはそのための手段がある。シュルレアリストたちが写真に対してとった反応と同じ、野生的で新しい場所に、アニメーションを深く突っ込むんだ。クソッタレなボートを揺らすんだ! アニメーションから主観的な力を奪い取って、現実に見えるようなかたちで何かを見せようとするんだったら、実写で撮った方がいい。

<古いカメラを使うことについて>
古いカメラの美しさは、それがベーシックであるということだ。つまり、それを使ってどれだけでも自発的にいろいろなことができるってこと。僕のプロセスのほとんどは直感的で即興的なものだから、レンズの下にあるものを自分の手を使って組み立てていく能力とその直接性は本当に重要なんだ。僕が知ってるアニメーターの99パーセントは自分の絵を撮影しない。それは大きな欠点だと僕は思うよ。『リジェクテッド』や『人生の意味』、『なにもかも大丈夫』で実験的なエフェクトを作り上げてみた今、撮影は僕の制作プロセスにおいてアニメーションと同じくらいに重要だ。 3 >

ドン・ハーツフェルト インタビュー(特別編) < 1 2 3 >