タワ国際アニメーション映画祭2009 レポート
土居伸彰
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<上映プログラムについて>
 このフェスティバルの公式プログラム本で特徴的なのは、コンペティションの扱いがそれほど大きくないということだ。回顧上映や特別上映の方が前面に押し出され、それぞれにかなりしっかりとした解説がついている(主にプログラマーが担当)。適当に選んだようなプログラムでお茶を濁すアヌシーや作家の回顧上映と国別特集を「まじめに」やる広島と比べると、かなり批評性の強い組み方となっている。
 今回のプログラマーの一人であり短編の審査員でもあるアミッド・アミディは、クリス・ロビンソンのことを「ミスター・オタワ」と呼んでいたが、オタワは本当にクリス・ロビンソン色が強い。基本的なプログラム構成を考えるのは彼だし(だから本人の著作とかなりダイレクトに連携する)、プログラム組みを委託するのも、彼が信頼を置く人間だ。コンペの一次審査は9割方彼がやる。(ただし、あまりに偏りすぎていないか、スタッフに最終的には確認してもらうという。)審査員自身も、彼が依頼する。ロビンソン自身、たとえばアヌシーと比較しながら、「別にみなを喜ばせようとは思ってないし、主観的なのも分かっているが、それがフェスティバルの色になる」とはっきりと語っている。
 結果的に、他のフェスティバルでは埋もれてしまうような作品が発掘されたり、逆に他では確実に入選するものがいとも簡単に落とされたりする(たとえばアレクサンドル・ペトロフ)。基本的に「ヨーロッパ色」が強いこういったアニメーション映画祭において、かなり異質な立ち位置にあることは間違いないが、北米唯一の大きなアニメーション映画祭として、その役割を充分に果たしているともいえるだろう。コンペティションのメンツも、「優雅な」ものはほとんど入らず、コミカルなもの、生々しいもの、エモーショナルなものが多くコンペインする。

<コンペティションについて>
 オタワの短編コンペティションは、かなり細かく区分されている。大きく分けると、インディペンデント短編部門、依頼作品部門、学生部門に分けられ、それぞれの部門で最優秀作品が選ばれる。これらの部門はさらに細かく別れており、インディペンデント短編部門は物語部門と実験・抽象部門、依頼作品はテレビ向け、大人向け、子ども向け部門、学生部門は高校生部門、大学生部門、大学院生部門が下部セクションとしてあり、それぞれのセクションでも最優秀作品が選ばれる。
 そして、最終的に、部門の区分関係なく、すべての短編からグランプリが一本選ばれる。
 他にも、公式上映での投票による観客賞、カナダでの制作作品が対象となる最優秀カナダ作品賞、一番優秀な学校に与えられる賞もある。
 賞にはひっかからなかったものの、漏らすには惜しい作品は、審査員の裁量によって選外佳作として表彰され、結果としてめぼしい作品はなにかしらのかたちでひっかかることになる。
 なお、子ども向け作品を除いて、短編のコンペは部門の分け隔てなく一緒に上映される。その振り分けも、今年はプログラム1が死と喪失をテーマにした作品ばかりを扱ったり、3にはデイヴィッド・オライリー作品が二本とも入ったり、日曜日に上映される5には比較的「安全な」作品が集められたり、それぞれに色がある。(クリス・ロビンソン『ライアン・ラーキン やせっぽちのバラード』[Amazon]を読まれた方は、そのやり方が時にやりすぎとも思えるほどに発展させられることをご存知だろう。)
 長編部門には短編のような区分はない。
 受賞作品についてはこちら

<今年の短編コンペティションについて>
 短編のコンペティションで目立った作品についていくつか触れておきたい。

 
 
(左上から右下)Love on the Line、Daniel's Journey、The Art of Drowning、Git Gob

 コンペティション1は前述したとおり、クリス・ロビンソンが似たテーマの作品を意図的に集めたので(死・喪失をベースにしつつ、人間の誕生から死までのサイクルをきれいに描くようになっている)相乗効果があった。プログラム全体をひとつの流れとして楽しめる面白さがあった。もちろん、個々の作品に光るものがいくつか。
 Love on the Line(G. Melissa Graziano、大学院生作品部門)は電報で愛を伝えあう19世紀の恋人たちの物語を初期映画の文法をパロディー化しつつ軽妙に描く切り絵コメディー・アニメーション。最初はそのスタイルの古さが気になってしまうが、次第にそれが意図的なものだと気付かされる。電報の信号はハートなどを描きつつも、電報を打つリズムは次第に興奮と快感のそれに変わっていき、それとともに信号も次第に具象化し、肉体を持ち、果てにはテレフォン・セックスならぬ電報セックスまで行われてしまう始末。非常に良くできた作品。
 Daniel’s Journey(Luis Zamora Pueyo、物語短編部門) は赤い仮面を被った息子と父親との間に、母親と妹の死の原因をめぐる確執が生まれる物語。二人の暮らす一軒家と遠くに見える駅は、現実的な空間にも思えるが象徴的な空間でもあるというアニメーションらしい二重性を帯びている。繰り返し登場する妹の亡霊の登場と幻覚によって息子と父親のすれ違いは徐々に致命的なものになっていき、最悪の結末を迎える。背筋が凍る作品。
 The Art of Drowning(Diego Maclean、学生作品部門。カナダ作品部門で選外佳作)はアメリカの詩人ビリー・コリンズの『溺れる技術』という詩を元に作られたアニメーション。溺れて死ぬ間際の人間のイメージを、詩の朗読にのせて展開していく。ペンと紙の質感が非常に気持ちよいハイクオリティーなアニメーション。
 Git Gob (Philip Eddolls、物語短編部門) はNFBの若手育成プログラム「ホットハウス」から。地面に空いた穴の存在を理解しようと試行錯誤する異星人たちのお話。今まで「ホットハウス」の作品はいくつか観てきたけれども、これが一番完成度が高く面白いかもしれない、と思った。まさに発想の転換。
 このプログラムには他にも、拙さや一見奇妙な美的センスが生々しさに転化される瞬間がある作品が非常に多かった。(キャリアの長い方をこの列に加えるのは申し訳ないけれども)Birth (Signe Baumane)やChangeling(Leena Jääskeläinen)などがその例。

 
 
(左上から右下)Madagascar, carnet de voyage、Please Say Something、I’ll Go Crazy If I Don’t Go Crazy Tonight

 コンペティション2で会場を呑み込んだのは、アヌシーでも一部で話題になっていたMadagascar, carnet de voyage (Bastien Dubois、大人向け依頼作品部門。依頼作品部門最優秀賞、大人向け依頼作品部門最優秀賞、観客賞の計三賞を受賞) 。作品は一ヶ月半にわたるマダガスカル旅行で描いたスケッチブックの体裁。3Dでスケルトンの空間モデルを作り、手描きのテクスチャーを貼付けることによって作られる独特の空間表現のなかで、さまざまなグラフィック・スタイルを用いられつつ、マダガスカルという国がみせる様々な姿が捉えられていく。映画館の大きなスクリーンで、35mmフィルム上映されたこともあり、スケール感が圧倒的。類する作品が思い当たらず、新世代のアニメーションがやってきた、という印象を素直に抱いた。グラフィック・スタイルごとに担当の人間がいるのかと思ったら、作家本人に質問したところ、描画に関してはすべて自分でやったとのことで驚いた。旅行記ものだけれども、近年流行の私小説的アニメーションの列に加えることもできるのかもしれない。しかし一つの達成でもあると思う。
 コンペティション3では「今年最も語られた短編作品のひとつの作者」という煽り文句のもと、デイヴィッド・オライリーがフィーチャーされていた。Please Say Something(物語短編部門、同部門最優秀賞受賞)とU2のPV、I’ll Go Crazy If I Don’t Go Crazy Tonightの二作がコンペイン。かつてはYoutube上で6歳の子どもの作品だと偽ってヘタクソな絵を使ってシリーズものの作品を投稿、シリーズ後半でいきなりハイクオリティ化して「絵がボロボロでも観客とコミュニケートしうることを証明したかった」と嘯き、Please Say Somethingでは無制約の自由が売りのはずの3DCGに、「創造性を高めるため」という理由であえて自ら制限を課して8bit時代のギザギザのグラフィックを用いて、カートゥーンのひとつの伝統であるネコとネズミの関係性を現代にアップデートするオライリーは、近年の若手では一番「とがった」作家かもしれない。この人もさらに何か新しいものを見せてくれそうな予感をさせている。
 このコンペプログラムでは、他にはThe Bellows March(Eric Dyer、実験短編部門)が印象に残った。立体印刷を用いて作られたゾートロープをさらにコンピュータ上でモンタージュした作品で、未知の質感を大スクリーンで堪能するという体験は贅沢だった。

  
 
(左上から右下)Inukshuk、Lebensader、Dahlia、Kitchen Dimentions

 コンペティション4には見応えのある作品が多かった。なかでも凄まじい迫力だったのは、35mmフィルムで手作業の迫力を体験させてくれたInukshuk(Camillevis Thery、物語短編部門)とLebensader(Angela Steffen、大学院生部門、同部門最優秀賞受賞) 。
 前者は、人間の少年とクマとクジラとの間で繰り広げられる遊び心溢れた覇権争いを、「かわいくなったライムント・クルメ」のようなスタイルで描き出す。万年筆で描いたような線の染み具合が大画面で非常に生々しくアピールし、騙し絵的効果が用いられつつもそれは遊び心程度にとどめられ、ナラティブ(これ自身は他愛もないが)をきちんと進めていく手腕に驚いた。しかしもっと驚いたのは、この作品がアヌシーのコンペにも入っていたこと。つまりすでに観ていたはずなのにまったく覚えていないこと……作品を観るという体験は、日によって変わるものです。
 後者は「これが学生作品!?」と驚いてしまうようなクオリティ。少女が一枚の葉のなかに見いだす生命の連鎖を描き出すこの作品、最初のうちは「ちょっと古いかな?」と思っていたのだけれども、それが次第に「クラシックな作品だ……」と思ってしまうような風格を帯びていく。奔放な色彩感覚と流麗なメタモルフォーゼ。構成力や音楽との協調もものすごくしっかりしており、観賞後にはなんだかよくわからないけれども力が全身に漲ってくる。この作家の次が観たい! アンドレアス・ヒュカーデの学生のようです。(この作品の全編はこのページの”latest projects”で鑑賞可能。でも画質は悪いですよ。)
 Dahlia(Michael Langan、実験短編部門) は前作Doxologyがオタワの学生部門最優秀賞を受賞している。今回はピクシレーション作品で、街のなかであるひとつの対象にカメラを向け、それを様々な角度で撮影するというそれだけのことなのだが、観ているとなぜかエネルギーが漲ってくるのを感じる不思議な作品。Doxology同様、作品全体としては何のことやらわからないのに、異様に気になってしまった。
 Magic Cube and Ping-Pong(Ray Lei、大学院生部門)は、このプログラムで推されていた中国人作家の作品。(今回のオタワでは三本がコンペイン。)基本的にはレトロなスタイルを用いてセンスよくまとめようとする作家なのだろうと思われる。日本にも類する作家はいるので個人的にはそれほど新鮮には感じず。ただ、ルービック・キューブ人間のちょっとした小旅行を描くこの作品は、三作のなかでも一番出来がよく、素直に楽しめた。
 コンペティション5の衝撃は忘れられない。何がって、リトル・プリートことプリート・テンダーの新作Kitchen Dimensions(物語短編部門。選外佳作……物語部門?)。『愛の可能性について』でポルドマが用いたようなグラフィック・スタイルをもう少しスマートにしたような男がこちらに背中を向けて料理に励んでいる姿がまず見える。窓のむこうには木々が風になびき、台所の横には机と椅子が。異様な緊張感が画面に漂い、タルコフスキーの映画を観ているかのような静寂が、夢なのか現実なのかをわからなくする。男が小麦粉をこぼすと、いつしか机と椅子が立ち上がり、男を呑み込んでいく。すると、今度は四次元的な変容空間が展開する……
 男が小麦粉をこぼし、新聞を読み、コーヒーを飲む。プロットとしてはただこれだけ。しかし、テンダーの手にかかると、そんな散文的な日常が宇宙規模のスケール(ただし非常にアホらしい)で、あたかも『ファンタジア』の最良のエピソードを観ているかのごとく展開することになる。まるでコンテンポラリー・ダンスを観ているかのような上品さもあり、実際、これは主人公の男による「上演」なのだけれども……でも台所だよ? バカらしさが神聖さに思えてくるスケール感。プリート・テンダーはもはやパルン・フォロワーではなく、もしかしたら、単純にアホらしさとスケール感という尺度でいったら、この作品の彼は超えてしまったかもしれない……そんなことも思わせるトンデモ・アニメーション。この作品が映画祭のコンペに入らなかったとしても文句は言えまい。基準をあまりにもはみ出しすぎているから。でもきっと20年後、30年後には怪作として評価されていることだろう。

<今年の長編コンペティションについて>

  
Mary and Max、My Dog Tulip

 基本的には短編のコンペを優先する方向性ゆえに、長編については二本のみしか観られず。(他にも二本トライしたものの、いろいろな理由があって全編観ることはできなかった。)
 『メアリーとマックス』Mary and Max(アダム・エリオット、長編部門グランプリ)はアヌシーに続いて二度目の鑑賞。映像の擦れ方と音の割れ方がすさまじく、映画館が古いせいかとも思ったが、後の上映ではきちんとしていたので、この作品のフィルムが悪かったのだろう。(画面にもキズが入りまくっていた。)
 オーストラリア在住のイジメられっ子少女メアリーとニューヨーク在住のアスペルガー症候群の中年マックスの文通を軸に二人の人生が進んでいく構成のこの作品。冒頭で「実話に基づく」というのは、監督であるアダム・エリオットの実体験をベースにしたゆえのことらしい。エリオットは一般的にハンディキャップを背負っており「異常」と思われている人々の生を、その欠点まで含めて、愛をこめて描く。しかし、彼の作品はアウトサイダー的存在をアウトサイダー的存在として扱うものではない。人間誰しもがアウトサイダーであり、誰もが出来損ないで不完全なのだという意識が彼の根底にはあるに違いない。さらにいえば、だからこそ人間というのは愛すべき存在なのだとも考えているのも間違いない。
 それゆえに、エリオットの作品に出てくる登場人物たちは、人間誰しもが抱えている不完全さのカリカチュアであり、しかしその誇張具合は、人は誰しも完璧でなければならない、完璧を目指さなければならないというイメージや強迫観念を突き崩すような種類のものである。(実際には達成不可能なんだから、壊したってかまわないのだ。)もちろん、不完全な人間たちは互いを誤解するし自己中心的になって他人を傷つける。マイナス面は確実にある。でも、エリオットが向ける温かい視線は、そういった事態が引き起こす悲しみや残酷さを含めて、世界を誠実に愛している。逆に、人間存在の不完全さを認識することで、補いあうこともはじめて可能になる。ラスト近辺、マックスの部屋のソファーで起こる出来事は、最も誠実で最も理想的なハッピー・エンドであり、嘘がなく、感動的。(人によっては残酷に見えてしまうかもしれないが……)
 アヌシーで見逃したMy Dog Tulip(Paul & Sandra Fierlinger、長編部門選外佳作)、オタワでも危うく見逃しそうになってしまったが、これは今回の掘り出しものの一つだった。イギリスの作家J・R・アッカーリーの同名小説を原作としたこの長編は、アニメーションの何たるかを知り尽くした人間でなければ絶対に作れない、まさに「上質な」作品。アニメーションでこんな長編作品があるのか、という新鮮な喜びは、アニメーションの未来に希望を照らす。
 中年の作家とジャーマン・シェパード・ドッグの雌犬チューリップの交流記なのだけれども、特筆すべきは犬のおてんばな可愛さ。全編にわたって主人公の男はこの犬に翻弄されつづける。チューリップは決して忠犬などではなく、獣としての犬の本性を発揮する。そのおてんばさを魅力溢れるものとしているのは、妙技としかいいようのないアニメーション技術。ときには輪郭線がぐちゃぐちゃに崩れ、色彩の塊みたいになってしまうのに、それでもすべてをきちんと認識できる不思議。その柔軟性の高さが、犬の奔放な動きを最大限に魅力的なものとしている。
 驚くべきことに映像部分に関してはフィエリンガー夫妻二人ですべてを作っている。(夫のポールがアニメーションを、妻のサンドラが背景を担当したとのこと。プレスリリースによれば、コンピュータ・ソフトウェア上での手描きアニメーションを全面にわたって用いて制作された長編はこの作品が初めてなのだそうだ。使われたソフトはこれ。制作には二年半の作画と半年のポスプロで、計三年かかっているらしい。)物語自体は、チューリップの成長、彼女が巻き起こすちょっとしたハプニング、交尾相手探し、主人公とその姉によるチューリップの懐かせあいなど、本当にささいなことしか描いていない。でもどのエピソードもとても笑えるし、心温まる。最後はチューリップの死で物語の幕は下ろされるが、そこで涙を誘うようなことはせず、終わり方は実にあっさりとしたものだ。皮肉なんかではまったくなく、上品で優雅な作品とはこういうもののことを言うのだなあと思わせられる素晴らしい作品だった。
 他にはCoraline(ヘンリー・セリック)、『マイマイ新子と千年の魔法』(片渕須直)を一部鑑賞も、前者は疲れのあまり途中から熟睡(技術の高さと背筋をゾクリとさせるような恐ろしさは印象に残った)、後者については人物描写がどれもクリシェの塊であるように思えてしまってリアリティを感じられず、途中退出。(ただし作品の世界観・空気感は素晴らしく、北米の観客たちも没頭し、随所で笑いも起こっていた。)どちらも全編を観ての感想ではないことをお断りしておきます。でもフェスティバルでの鑑賞ってこういうことですよね? 3 >

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