重のアニマ
 アレクサンドル・ペトロフ『春のめざめ』

松尾奈帆子


(C)2006 Channel ONE Russia・DENTSU TEC

 『雌牛』、『おかしな男の夢』、『水の精』、『老人と海』、それから『春のめざめ』。ペトロフの作品には、すべて民話や小説の原案がある。人間を描くことが文学に課せられた使命であれば、原作からアニメーションを導くときもペトロフはこの掟に従った。与えられたシナリオを従順になぞるということではない。彼は文学の気骨精神「人間とはいかなるものか」を探る志に忠実だった。

  『春のめざめ』は19世紀末のロシアを舞台に、初恋を通して聖と俗の間で揺れる少年の葛藤を描いたガラスペインティングアニメーションだ。1927年に書かれたイワン・シメリョフの『愛の物語』が原作ではあるのだが、そもそもこの作品が実在するイワン・ツルゲーネフの小説『初恋』から物語が展開するメタ構造を持っている。小説内小説ならぬ、本としては実在する作品をシメリョフは自作の創造世界に持ち込んだ。そればかりか、更にはそれを読んだペトロフが二つの小説をまたがって彼流の少年像を創り出した。『初恋』の主人公ペトローヴィチ、彼に自分を重ねる『愛の物語』のアントン、多層的な少年を描くペトロフの『春のめざめ』は何とも複雑な構成になっている。そしてツルゲーネフを読んだシメリョフを読むペトロフ、というかつての少年たちの面影もまた、作中の少年像に託されている。『春のめざめ』では度々、少年アントンがペトローヴィチに姿を変えて描かれるが、アントンやペトロフに限らず、誰でも架空の世界を旅した経験があるだろう。ペトローヴィチではなく夢想的なアントンを主人公に置くことで、他者に成り代わる想像力が人間の普遍的な一面として描かれていることに注目したい。

 アレクサンドル・ペトロフの興味は、いつも人間の傍らにある。すべての作品から彼の人間に対する造詣を伺うことができるが、同じ思惑の線上にありながらも『春のめざめ』はそれ以前の作品とはちょっと違う。アニマの矛先を主人公という局所的なクロースアップから、同じ町で暮らす人々の生活や世界観にまで向けたところに『春のめざめ』の特異さはある。
 これまでペトロフの視点はほとんどずっと、彼の役者たちに寄り添っていた。主人公とごく近しい人々のみを語る方法は、逸話として独立した世界観をもたらしはするが、その効果と引き換えに彼らを外界と引き離す。対して、今までなんとなく想起されるだけだった空間、つまりは自然や情景を筆頭に、男が乗客に妄想を打ち明ける列車(『おかしな男の夢』)や、信心深い老人が恋人を裏切った教会(『水の精』)という登場人物を取り巻く環境こそ、『春のめざめ』では主人公の内面をあらゆる角度で語るための重要な要素に成りえるという見方が取り入れられている。
 例えば市場や教会といった公の空間は個人的な逢瀬の場に変容し、悪徳の象徴である牧夫の家は少年の欲望の末路を暗示する。共同体を通して人間の姿を炙り出す構成は、シメリョフによるものと見る方が妥当かもしれない。しかしペトロフはこれを大いに利用し、更には物語をいくつかの視点で描き分けることで、少年と彼を包む外殻を浮き彫りにしている。少年の空想、全体を見渡す目、それからペトロフによって原作から濾過された3人の女たち、これらがぐるぐると融合して『春のめざめ』を紡ぎ出す。
 少年アントンは、彼の空想の中では実に勇猛果敢で女神を連れて旅に出る。そこではすべてが彼を中心に展開するが、ひとたびカメラの視点ともいうべきフレームに捕われると、彼自身が客体と化す。妄想にニヤつき、パーシャの脚を盗み見、愛人がやってきてもおやつを口にしている滑稽な学生に早変わりしてしまう。この無機的な凝視は、そのあっけなさ故に印象的な御者の死にも平等に降り注ぐが、一方で牧夫の死はペトロフの眼差し越しに劇的に描かれる。また、この眼差しから語られる視点こそペトロフによって咀嚼されたシメリョフの物語であり、3人の女たちはそれぞれ火や水、雪といった自然的な要因を伴ってイコン化する。
  背徳は牛や蛇、火に象徴され、義父である牧夫と関係を持つマニカは半身を蛇に変えて家に巻き付く。牧夫の操るムチも蛇の尾のように門をすり抜け、二人が横たわるベッドは炎で燃え盛っている。彼女の姿は教会の壁画でも暗示されているが、少年は気づくことができない。炎を打ち消すはずの水は二項対立の要因ではなく、『水の精』を思わせるセラフィーマとの激情に文字通りアントンは溺れ、少年の体を欲する彼女の後ろ姿は異世界の住人のように美しい。炎のようなマニカと水に沈んだセラフィーマが引き起こす高熱は、パーシャの雪によってようやく鎮まる。
 ペトロフの眼差しでは、聖や悪徳といった形而上の観念が隠喩によって具現化されている。作家の目に映る世界だけで物語を綴る作品は多いが、『春のめざめ』には一方的な目に偏りすぎることのない複数の目が縫い込まれている。原作の複合的な生い立ちを思えば、なおさら適しているだろう。それぞれの視点の境目は変容するイメージを介することで(手紙を読むセラフィーマがジナイーダ化し、更にはその姿が市場のスライドになるなど)、観客は身構えることなく、その混淆した視点を受入れることができる。

 では、こうした多重的な視点は何の為に仕掛けられたのか。それはやはり人間や世界といった、捉えがたい対象を描く為の努力に他ならない。主観的な原作の解釈だけでは、場合によっては少々窮屈すぎる。対象へのクロースアップ、視点の固定化は個人的な投影をよくよく表す一方で、その他の側面、多義的な存在としての人間性を奪っていく。
 『春のめざめ』は「誰を描くか」、よりも「いかに描くか」を重視した作品だ。実写では捉えることができない精霊たちを踊らせるのは、確かにアニメーションの得意とするところだ。しかし、人間は精霊ではない。誰を描くかに重点を置き、主人公を魅惑的な亜人に仕立てれば閉じられた作品世界の中では輝くだろう。だがこのとき、人間が主題であるにも関わらず、観客は寓話化したキャラクターを前に、また一歩引いてその世界を眺めねばならない。アントンはどこにでもいる少年であり、欲深い女たちもありふれている。私たちは誰しも神秘的、あるいは悪魔的な一面を持っていて、神話化した精霊達も人間の側面から発したことを忘れてはならない。ペトロフは私たちと同じように歩き、話し、悩む人々の人生を複合的な視点で捉えることで、人間が精霊になりえる瞬間をかたちにしたのだ。実際セラフィーマの容貌は異形の者に属しかねないが、彼女の胸の内は人間らしい欲望とかなしみに満ちている。

 ノルシュテインはペトロフから失われつつある叙情性について言及する。言語に集約されない映像のアウラを至極とすれば、それは当然かもしれない。しかし何をアニミスティックと捉えるかは、観客にとって、あるいは作家にとってもそれぞれ異なるだろう。とても稀なことに、ペトロフはプロットからアニマを追い求める作家なのだ。人物をモチーフとする作品の多くが、結局は「ヒトガタをかたどった粘土や切り紙」というマテリアルの次元でのアニマだというのに、ペトロフは人間の中にこそアニマが潜むことを信奉している。それにペトロフのアウラは完全に沈下したわけではない。嵐の予兆に、村の家々の屋根に染み込む雨粒の斑紋は、観客の鼻先にまで湿り気の帯びた空気を漂わせる力を持っている。『春のめざめ』はいつか物語の構造からアニマを問う姿勢と、アニメーションが宿す映像の魅力との、二重のアニマを宿す由々しき過程となるだろう。
 アニメーションの最も根源的な種子であるイマジネーションは、いつだって私たちが生きる幻想の中から立ちのぼってくる。『春のめざめ』は内向的になりがちなアニメーションの箱庭を解放することで、陽炎のように掴みがたい人間の姿を照らし出している。



『春のめざめ』公式サイト

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