イアン・ラーキン、創造と現実
 山村浩二


Alter Egos (2004) Copper Heart Entertainment / NFB

拝啓ライアン・ラーキン

 僕が、アニメーション創作を始めた時、これで生活をしていけるとは全く思っていなかった。ただただ作品(マスターピース)を創造する事を夢見て、「お金儲け」は、いつも後回しだった。20代の頃、路上生活者を見るたび、自分も簡単にあっちの世界へ行ってしまうのではないかと感じていた。その頃の僕の作品『遠近法の箱』(2000)には、路上生活者のキャラクターが登場している。今になって分析すると、ひとつの親近感の現れではないかと考えられる。収入や身分の保証が何もない「アニメーション作家」は、いつでも簡単に路上生活者になってしまう、そんな不安からの親近感。しかし現実に揉まれて自分の「感性」を切売りだけはしたくないと、頑に自分の創造活動に執着していった。
 その後「お金儲け」の為の仕事もしながら、自分の「感性」が時には傷つき、それでもなんとか守りながら、創造の「精神」を維持してきた。家族も持った。『頭山』(2002)でアカデミー賞を経験した。ロサンゼルスのコダック・シアターでのセレモニーは、アニメーションの創作者が住む世界とは対極の、華やかな一瞬だった。

 ある日、来日していたカナダ国立映画庁(NFB)の立体アニメーション作家、コ・ホードマン氏から、昔の同僚のライアン・ラーキンが路上生活をしていて、よく地下鉄の駅の入り口で見かけるという話を聞いた時、大変驚いたと同時に納得してしまう自分もいた。アカデミー賞ノミネート作家の現在の境遇。とても人ごとではないと感じさせるニュースではあった。

 アニメーションの創作は、現実の享受から得た「感覚」を、映像へと還元するプロセスであるともいえるのだが、その制作中には、現実から切りはなされた大いなる自由の感覚があり、アニメーション映像そのものも現実からはるか遠く、独自に自立する存在となる。映像の次元は、現実の次元とは別の所に位置していて、その創作に携わるとき、駒と駒の間に流れる特殊な時間と空間に、自分の「精神」が現実から切り離されて、大きくはばたく感覚を得る。原始的な純粋さを楽しむ精神の喜び。この自由の感覚が創造へと向かわせるひとつの動機だと僕は感じている。ただこの自由を得る為には、何千枚ものドローイングと格闘しなければならないので、社会からのしばしの隔絶、「孤独」と向き合う長い時間を要する。
 この考え、感覚は、ライアン・ラーキンにも大いに共感してもらえる事だと確信する。ただ、ライアンは、ある時期から創作の道を外れ、現実の世界へと戻り、そして今はそこからも旅立ってしまった。

 ライアン・ラーキン初期の作品『シランクス』(1965)、『シティー・スケープ』(1966)は、若いアーティストのアニメーションに対する純粋な精神と確かな才能の萌芽をみる事ができる。『シランクス』で神話的世界を描き、その翌年の『シティー・スケープ』では自身の置かれている環境、現実へと目を向け始めたのが分かる。(完成年ではこの順番だが、実際は『シティー・スケープ』の制作を先に着手している。)ドローイングは現実を見つめ、そこから感じ取らないと巧く描けない。しかし現実を享受するための良い「感性」は、決してタフなものではない。感度のいい純粋な精神は、感度がいい分、とても傷つきやすく、もろいものだ。その後人を見る事が好きだったライアンは、街の人々の観察から『ウォーキング』(1969)を生み出した。その「ウォーキング(歩き)」は、現実のフォルム、重力からは解放され、軽やかで楽しく、創造の喜びに溢れている。『ストリート・ミュージック』(1972)は、70年代のフラワームーブメントの中で青春を過ごしたライアンにしか創造し得なかった「自由な」精神に満たされていて、例えばディズニーが『ファンタジア』(1940)で、音楽とアニメーションの関係を1対1のリズムの関係、ひとつの明確なイメージに押し込めていった息苦しさとは対極の、音楽とアニメーションの「自由な」関係、新しい方向性を示唆している。総じてライアンの創作のベクトルは「自由」へと向かっていった気がする。

 ライアンがNFBを離れる時、どんな傷を負ったのか、そしてどうして路上生活を選んだのか。兄弟の死、アルコール依存、コカイン、ヒッピー文化としての自己責任的「自由」への信心、栄光と挫折、いくつかのキーワードはあるが、実際の所、正確には分からない。ただ長い路上生活での「人間観察」が、いつか自分の創作の役に立つと考えていたとも聞く。しかし30数年ぶりの『小銭を』という作品でそれが実現し始めた時、ライアンは逝ってしまった。2007年2月 14日、日本ではお金儲けの広告戦略で浮かれ気分を盛り上げているセント・バレンタイン・ディの日に。

"I just want to rest and rest and rest and rest and rest until the end of my days."

という言葉を最後に残した。
 創造は、本来わずかな小銭の為にする行為とは、別の次元にある物だと信じている。しかし現実には、お金が必要だし、ほとんどの人が「お金」に振り回され、純粋な創造の精神など目もくれず、歩き去っていく。

 いつか実際に会える日が来るかもしれないと思っていたが、それは不可能となってしまった。今、僕にできる事は、ライアンの残した「自由」の精神を深呼吸して、ふたたび歩き始める事だけだ。

 社会から、そして肉体と精神からも解放されたライアンへこの拙文を捧げる。

(2007年7月5日)


Walking (1968) - Ryan Larkin © NFB

ライアン・ラーキン、創造と現実