ゴール・コヴァリョフであること
 クリス・ロビンソン(訳・土居伸彰
Chris Robinson, “Being Igor Kovalyov"(2000) from Unsung Heroes of Animation(2006)
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 イゴールはアイスホッケーのゴールキーパーだったことがある。俺はゴールキーパーが好きだ。クレージーな装飾を施したクールなマスクをしているから。ゴールキーパーはいつだって他のプレーヤーたちと違っている。想像してみなよ、ゴールキーパーはディフェンスの最終ラインにいる。頭から足先までパッドを当てて、ゴムの破片をとめなければならない。キーパーのところにくるときには100マイルものスピードになることもあるのに。本当に狂ってる。しかもそのあいだじゅう、やつらは感情を外に表さない。狂気の描写そのものだよ。これはゴールキーパー特有のことだ。だって、ゴールキーパー以外にとっては、マスクっていうのはいろいろな機能をもったものなんだから。マスクはいろんなことができる。ニコリと微笑んだり、笑あざけったり、泣いたり、呻いたり、歯をむいたり。でもその下に何があるかを知ることは決してできない。ただ、君は知っていると思っているだろうし、知っているふうを装うだろうね。でも、心の奥底では、俺たちが日常で目にするその奇妙な表層の向こうにいったい何があるのかなんて、本当は知りたくないと思ってる。これってまさにイゴール・コヴァリョフの作品が描くことだろ? 彼のキャラクターは上品に笑うけれども、その一方でこそこそと潜んで、裏切るものがある。好色な獣が潜んでいるんだ。誰も本当の意味ではお互いにコミュニケーションが取れない。誰も他人のことがわからない。結果はこうだ――孤独で、隔離されて、閉ざされた世界。想像してみなよ、友達が自分の恋人を犯しているかもしれないと考えてしまうような世界を。死者が眠っている部屋がある一方で、彼らに関係なく人生は進んでいくんだ。これがコヴァリョフの創造する世界だ。偏執狂的で暗い光景。自己中心的で孤独な存在たちが、どんな対価を払ってでもいいから、なんらかのふれあいを渇望している。ふれあうことこそが生きることだ。生きることとは、彼らを恐怖から守ってくれるブランケットの温かさを感じることだ。

 “Hen, His Wife”(1989)は、小さなアパートが舞台になっている。青い男がいて、雌鶏の妻がいて、人面の虫のペットがいる。人生は順調だ。訪問者がやってくる。彼は青い男に、妻が雌鶏であることを気づかせる。男はショックを受ける。雌鶏を追い出す。幻覚を見る。だが最終的に、孤独な暮らしに直面し、雌鶏を許すことにする。雌鶏はすぐに戻ってくる。しかし、男の変化に気づいた雌鶏は、恐怖で逃げ出す。それは彼女の望む事態ではなかった。もはや彼女の結婚した男ではなかった。もうすでに違う人間で、いまや家族はめちゃくちゃになってしまった。 訪問者の存在は青い男の意識のなかだけのものであり、彼には自分を取り巻く世界が見えていない。彼の覚醒は、カップルの生活のいつも変わらぬ単調さ(レコードプレーヤーの上で回り続けるバスが象徴している)を壊すのだが、男は、身体的には[鶏に]変化したものの、また元の蒙昧な状態に戻ってしまう。ただし、今や彼は一人で残されているのだ。
“Hen, His Wife”に対する反応はいろいろだった。同僚のゼーニャ・デリオッシンとアンドレイ・スヴィスローツキー(彼らはコヴァリョフを追ってハリウッドにやってくることになる)は、まったく理解できなかった。ユーリー・ノルシュテインは、作品を見て、もう一度見たいと言った。コヴァリョフにとっては、守りの堅いノルシュテインから得られる最高の賛辞だった。ヒトルークにとっては、この作品が金のためではなく作家自身のためにつくられたインディペンデント作品の最良の例に思われた。フェスティバルを回っていくなかで、”Hen, His Wife”は、オタワ国際アニメーション・フェスティバルでグランプリを受賞し、多くの人をさらに驚かせ、愕然とさせた。
 コヴァリョフの次の作品『アンドレイ・スヴィスローツキー』(1991、コヴァリョフの同僚の名前からタイトルがとられた)は、彼のキャリアのなかでもっともブレッソン的な作品だ。二人の男と、少しの間だけ女性も加わった偏執的な関係性を垣間見させる。キャラクターたちの相互関係は明確ではない。一人がどうやら他の二人の主人であるということは推測できる。人々の活動が写った断片的でくすんだポラロイドを並べることによってコヴァリョフは物語を提示する。汚くぼんやりとした茶色の色調が作品を支配する。崖のそばに家があり、その家は、木々やぼろぼろになった壁、金属棒、発電機に囲まれている。コヴァリョフは、フィルム・ノワールのような雰囲気をもたせつつ、ありふれた行動の表層の背後に何かが潜んでいることを示唆する一瞬の手がかりを示す。ラストにおいてさえ、未解決なものは残ったままだ。男が崖を飛び降りたことはわかる。彼が裏切られたのだということはわかる。手紙が書かれ、読まれ、隠されるシーンの素早いカットは、われわれに多くのことを示唆する。男は死んだのだろうか? 逃げたのだろうか? 彼は実際には召使に捕らえられていたのだろうか? 何も明らかにならない。われわれはただ単に、知らない人間の人生を瞬間的にちらりと見ることを許されただけだ。
 コヴァリョフは完成するまでこの作品にタイトルをつけることができなかった。「友達が素晴らしいアイディアをくれた。“もう一人キャラクターを追加して、でもそのキャラクターは画面に現れないようにすべきだ。彼は物語の目撃者になる。”そのキャラクターには、ポーランド人の名前のリズムが欲しかった。なんたらスキー……なんたらスキー……タルコフスキー……いや、もしかしたら僕の家族のポーランドの血のせいかもしれないね。」そして同僚のスヴィスローツキーがその答えとなる。
 目撃者となるのは、実際には少年のイゴール・コヴァリョフである。『アンドレイ・スヴィスローツキー』は、ブーチャにある彼の別荘を舞台としている。彼はそこで、祖父母と何度も夏を過ごした。この作品は、幼年時代に見たものや聴いたものへの頌歌となっている。この作品は、まだ何も理解しない子供の目を通じて目撃された謎めいた大人の世界であり、そういった思い出を集めた大人によって監督されたものだ。仮定、思考、感情、反応が、常にあらわれては消えていく。われわれはボディーランゲージとジェスチャーをもとにして関係を想像するしかない。つまり動きを通じてである。動きがわれわれ自身の存在を凝固させていく。われわれはその動きに名前を与えることで、自分たちの複雑さを理解しようとする。秩序、全体性、一時的な平和を得るために。
 「見よ、ディーテを。さらに見よ、断じて怯まぬ勇気を身の鎧とせねばならぬ場所を」(ダンテ
[『神曲 地獄篇』、寿岳文章訳]>3

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