ゴール・コヴァリョフであること
 クリス・ロビンソン(訳・土居伸彰
Chris Robinson, “Being Igor Kovalyov"(2000) from Unsung Heroes of Animation(2006)
  
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 死者が眼を見開き歩く場所/死者が眼を見開き歩く場所/死者が眼を見開き歩く場所

 うちの犬は死について考えるのかと思う。そうは思えない。自分の尻を舐めるので精一杯なのではないか。うちの息子も絶対に死について考えていない。このクソったれな世界を理解しようとしながら、パンツに便を垂れてしまわないようにするのに精一杯だ。俺自身は死についてもうそれほど考えない。それよりも時間について考える。時間は俺を取り巻いている。時間はいつも違っている。時間のアイコン。置き時計。テレビ。コンピュータ。車。腕時計。アーケード・ゲーム。いつだって時間を思い出させる。時間は眼に見えない。小川の静かな流れのようにゆっくりで、無視されてしまうほどにぼやけている。いつも動いている。静寂。カチコチと鳴る音がする。空白のスクリーン。空間のひとかけら。時間が眼に見えるものであってほしいと願う。記憶された時間。無時間で無空間な時間は、俺たちが座ったり立ったり自分が今いるのでない物理的時間へと飛んでいっているあいだにも、記憶と景色のあいだを漂流する。夢や希望や欲望は記憶と共に潜み、空想を今ここではない別の時間と空間へと運び去っていく。時間は俺たちを降伏させて飲み込み、俺たちを規定し、したたりおちて犯す。そしてなによりも裏切る。俺たちはみな時間に裏切られる。時間と戦うのは愚かだとウィリアム・フォークナーはかつて書いていた。いつだって負けるしかありえないから。でも戦わずにはいられない。俺たちがはじめる旅は、俺たちを魅惑し、悩ませる。そして泥のなかへ、蛇や虫たちの涌くなかへと俺たちを連れていく。俺たちは始める前に自分を裏切っている。自分たちがひとかどの人物だと信じている。そんな状態では、俺たちは、あれでもないしこれでもない、そんな不確実な場所に置かれてしまう。その瞬間に生きるというよりも、ある瞬間のために生きる。すべての瞬間を楽しもうと待ちこがれるのに忙しくなってしまう。そんなふうに待ちこがれているうち、俺たちは探し求めていたものそのもの――自由――を破壊してしまう。自由とは自分を捧げた見返りに得られるものだと考えるやつは愚かだ。自由が生まれるのは自分をまずは自分に、それからほかの誰かに与えることによってなのに。タバコの吸いさしだとか、バイブレーターだとか、その他肉欲だとか、そんなものについて話しているわけじゃない。俺が話しているのは、俺たちみんなの心やハートに深く絡み付くなにかについてだ。そしてそれこそがまさにイゴール・コヴァリョフ作品の根本にあるテーマだ。

 イゴール・コヴァリョフが生まれたとき、父親と祖父は兵士だった。イゴールは銃が好きでなかった。ほかの子供たちと戦争ごっこをするのも好まなかった。自分の人形と遊び、絵を描いていた。両親を愛していたが、祖母はもっと好きだった。彼女を信用していて、リビドーの秘密を共有していた。自分のペニスを発見するまでは人形で遊んでいた。痙攣性の興奮によって暴発する流動物は若いイゴールを上気させ、彼を新たな旅へと連れていった。パパは死んでしまったが、イゴールは中級階級の心地よい自分の家に留まった。イゴールは将軍だったおじいさんのようにリーダーになりたかったが、自分がマザコンであることを本心ではわかっていた。彼は母親の温かい腕に26歳になるまで寄り添い抱かれていた。それからわれわれみなと同じように、孤独な旅を始めたのである。

 キエフは地方都市だ。イゴールはプリミティブで穏やかな、小さな絵を描いていた。キエフのスタジオが言った。「俺らは一緒にやれるはずだ」。



 コヴァリョフはキエフのアニメーション・スタジオで中割係や彩色係として働いていたが、スタジオ併設の学校に申し込む以前にはアニメートの作業には参加していなかった。「キエフのスタジオで研修を受けたのだけども、なかなかのめりこめなかった。特別なテストを受ける必要があった。そのあと、アニメーションのことがわかってきてから、アニメーターとして働きはじめた。」生涯にわたる友人アレクサンドル・タタルスキーと共にキエフで学んでいたこの時期、モスクワに新しい映画学校ができた。コヴァリョフはその学校に出席するように招かれた。教師たちのなかには、伝説的なロシアのアニメーター、ユーリー・ノルシュテインやフョードル・ヒトルークが含まれていて、コヴァリョフの人生でのたった八時間だけの経験として、アンドレイ・タルコフスキーも教えてくれた。「ヒトルークは素晴らしい教師だった。彼はいつだって僕たちにすべてを与えてくれようとした。彼の作品に夢中になったことはないけれど、彼がアニメーションについて感じていることには夢中にさせられた。」ノルシュテインはその逆で、あまり熱心な教師ではなかった。彼は人を寄せ付けず、嫉妬深かった。この時期は、コヴァリョフの芸術的な方向性を発展させ形づくる非常に重要な時期だった。モスクワで文化的な生活が花開いていくなか、コヴァリョフは世界を発見していった。まず最初は、ボリヴォイ・ドヴニコヴィチとザグレブ派だった。さらに、[イングマール・]ベルイマンがいて、[カール・]ドライヤーがいて、[アンドレイ・]タルコフスキーがいた。しかしその誰よりも、プリート・パルンとロベール・ブレッソンがいた。ブレッソンがコヴァリョフの映画的スタイルに影響を与えたことは明らかで、夢と現実の間でずっと続いていく対話を見てもそれはわかる。パルンはコヴァリョフの描画スタイルを形成した。(パルン氏を発見する以前のクソみたいなコヴァリョフの絵を見てみるべきだ。)コヴァリョフはパルンの『トライアングル』(1982)をキエフの映画館で見た。安っぽい長編実写映画の前に上映されていた。コヴァリョフは完全に魅了され、ただ『トライアングル』を見るためだけに次の上映のチケットを買い求めた。まずはその大胆で混沌としたグラフィック・スタイルが彼を惹き付けたが、次第にアニメーションそのものに魅了されつつあることがわかってきた。コヴァリョフは興奮しながら映画館を後にして、あらゆる人に、このエストニア人の正体を訊ねてあらゆる人に質問してまわった。パルンは、数多い教師たちの中でもっとも重要な人物だった。
 三年間の修学ののち、コヴァリョフはキエフで一年間働き、その後モスクワのタタルスキーのもとに加わった。彼らは最初、モスクワのテレビ・スタジオのための仕事をしていたが、そのすべてに嫌悪感を抱いていた。「僕たちはクライアントが嫌いでモスクワのテレビ・スタジオとはいつも揉めていた。修正の命令ばかりだった。“これは子供向けなんだからさあ”、“面白くない”、“冗談が下品すぎる”。僕たちは常に、完全なる自由を夢みていた。」自由はついに、二人のもとに偶然やってきた。ゴスキノの代表者が、コヴァリョフとタタルスキーに、彼らのスタジオを設立するオファーを出してきたのだ。「僕たちは衝撃を受けた。そんなことを言ってくれる人はそれまで誰もいなかったからね。もちろん、こんなことが起こったのはペレストロイカの最初の一、二年のことだったから、少々楽に進んだ。」コヴァリョフとタタルスキーは、スタジオとして正教の古い教会を与えられた。「実際にいってみると、教会のなかで仕事するというのはやはりとても奇妙なものだった。」この聖なる場所において、パイロット・スタジオが誕生したのである。
 タタルスキーとコヴァリョフは多くの作品を共に制作し、その中には受賞した”The Dark Side of the Moon”(1983)もある。(コヴァリョフが脚本とキャラクター・デザインを行ったが、彼はそのときまだキエフにいたので、タタルスキーが監督した。)しかし同時に、そこがコヴァリョフにとって完璧な環境ではないということもわかってきた。「アレクサンドルはプロデューサー・タイプの人間だった。僕は芸術家タイプの人間だった。僕はいつもドローイングを描いていたしアイディアもたくさんあった。僕はアレクサンドルに、笑える作品はもう作れないと言った。もう十分だったんだ。なにか違うことがやりたくてたまらなかった。彼は混乱していたけど、僕の方はもちろんどんなことでもやれると思っていた。」
 潰瘍でモスクワの病院に寝たきりだった一ヶ月のあいだ、コヴァリョフは昔のアイディアに取り組みはじめた。いつかみた夢をもとにして、コヴァリョフはあるアパートに住むカップルの物語を構想した。特筆すべきは、女性が雌鶏だということだ。コヴァリョフはベッドに寝たきりの時間を利用して詳細なストーリーボードを作った。(彼がストーリーボードを使った唯一の作品である。)出来上がると、それをタタルスキーやパイロット・スタジオのプロデューサーのアナトーリー・プロホーロフに見せた。「彼らはショックを受けていたよ。傑作な顔をしてた。見せたかったな。」二人は共に、作品はもうすでに撮影の準備ができていると感じたのだ。
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